<吉田八幡神社> 
創始は非常に古く白雉5年(654)5月<大化の改新後10年ほど後>といわれてる。言い伝えでは、その場所にあった巨石に梵字が現れ光を放った。村人はこの不思議な現象は神様の現れだとして神社を建てたという。祭神は@玉依姫(タマヨリヒメ)<日本神話の神で日本書紀、古事記にも登場する。海幸彦、山幸彦の話の中に出る豊玉姫(トヨタマヒメ)の妹。姉の豊玉姫の出産に付き添うために海辺に行ったが、姉に頼まれ姉が産んだ子を陸に抱きかえる。その子は限建鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)と言い玉依姫の後の夫。A応神天皇、B神功皇后<仲哀天皇(第14代)の皇后>の3神。※興味のある方は日本書紀を読んで下さい
天徳3年(959)大神惟基が豊後国司として赴く以前に京都で「逆乱を起こす」との疑いで」京都四条川原で処刑されようとした。その時、
吉田八幡の神霊により処刑を免れた。赴任した大神惟基はこのため氏神として吉田神社を深く信仰し、多くの寄進をした。最盛期には僧坊が12、社僧50余名に及んだという。
その後も都賀牟礼城(入田門田)の入田丹後守や岡城主の中川山城守の保護を受けた。
昭和58年(1983)に社務所が新築された。
ご神木として写真右に見えるムクノキが祀られている。今は上部が無くなり(落雷などの為か?)途中から小枝群が伸びている。

創始は非常に古く白雉5年(654)5月<大化の改新後10年ほど後>といわれてる。言い伝えでは、その場所にあった巨石に梵字が現れ光を放った。村人はこの不思議な現象は神様の現れだとして神社を建てたという。祭神は@玉依姫(タマヨリヒメ)<日本神話の神で日本書紀、古事記にも登場する。海幸彦、山幸彦の話の中に出る豊玉姫(トヨタマヒメ)の妹。姉の豊玉姫の出産に付き添うために海辺に行ったが、姉に頼まれ姉が産んだ子を陸に抱きかえる。その子は限建鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)と言い玉依姫の後の夫。A応神天皇、B神功皇后<仲哀天皇(第14代)の皇后>の3神。※興味のある方は日本書紀を読んで下さい
天徳3年(959)大神惟基が豊後国司として赴く以前に京都で「逆乱を起こす」との疑いで」京都四条川原で処刑されようとした。その時、

その後も都賀牟礼城(入田門田)の入田丹後守や岡城主の中川山城守の保護を受けた。
昭和58年(1983)に社務所が新築された。
ご神木として写真右に見えるムクノキが祀られている。今は上部が無くなり(落雷などの為か?)途中から小枝群が伸びている。
<思い出>
吉田八幡神社は、毎年秋にお祭りがあり、地元の青年による自慢のお神楽が朝から夜遅くまで舞われ、太鼓の音が少し離れた我が家まで聞こえていた。境内にはテント貼りの店が並び、子供達の賑やかな騒ぐ声が響いていた記憶が残っている。その後社殿改築のため境内にあった樹齢何百年という楠や杉の木を切り出してその資金に充てたと聞く。そのためあのうっそうとした境内の面影は今は無い。ご神木の途中の枝には欄やシュロの木が生えているのが見えるほど大きな木だった。この写真は平成22年に帰郷した際に撮った写真で祭の準備が行われていた。今はお神楽は舞われていないようだ。
吉田八幡神社は、毎年秋にお祭りがあり、地元の青年による自慢のお神楽が朝から夜遅くまで舞われ、太鼓の音が少し離れた我が家まで聞こえていた。境内にはテント貼りの店が並び、子供達の賑やかな騒ぐ声が響いていた記憶が残っている。その後社殿改築のため境内にあった樹齢何百年という楠や杉の木を切り出してその資金に充てたと聞く。そのためあのうっそうとした境内の面影は今は無い。ご神木の途中の枝には欄やシュロの木が生えているのが見えるほど大きな木だった。この写真は平成22年に帰郷した際に撮った写真で祭の準備が行われていた。今はお神楽は舞われていないようだ。
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