<広瀬神社> 
昭和10年(1935)日本初の軍神しなった廣瀬武夫中佐と竹田出身の戦没者を祀る廣瀬神社が建設された。
靖国神社の遊就館には広瀬武夫が直撃を受けた時の肉片が、側にいた兵士の帽子をかすめた痕跡が残った帽子が奉納されている。
【広瀬武夫とは】
慶応4年(1868)7月16日武夫は岡藩士広瀬友之允の次男として生まれた。幼くして母を亡くし祖母に育てられる。西南戦争での竹田街の全焼で自宅が焼失。飛騨高山に転居した。高山の換章(かんしょう)小学校を卒業し、後年その教師を務めた。
明治18年(1885)に退職。海軍兵学校に入校。柔道は講道館で学んだ。兵学校時代に運動会のマラソンで骨膜炎を患いながら完走したというエピソードがある。一時は左足切断といわれるほど悪かったが安静にすることで完治したがその後も痛みはあったらしい。
明治22年(1889)卒業。入学時の席次は19番、卒業時は80人中64番(49番説もあり)であまり成績は良くなかったようだ。
明治23年(1890)卒業後この年の2月まで軍艦「比叡」に乗船。二度の遠洋航海を経験。少尉に任官。半年だけ測量艦「海門」で測量、警備従事。その間で静岡の清水港に入港した折に清水次郎長と知り合う。
明治27年(1894)日清戦争に従軍。
明治28年(1895)大尉に昇進。連合艦隊威海衛攻撃で水雷艇での夜襲攻撃に参加。
明治30年(1897)ロシア語を学びロシア留学。その後ロシア駐在武官。
在任中に機雷施設の専門家であったアナトリー・コワリスキー大佐の娘、アリアズナ・アナトーリエヴァナ・コワリスカヤと知り合い、文通などの交友もあり、武夫の死を知り喪に服したといわれている。
明治33年(1900)少佐昇進。
明治35年(1902)帰国。
明治37年(1904)2月10日ロシアに宣戦布告し日露戦争始まる。2月23日第1回旅順港閉鎖作戦に従事。天津丸ほか5隻で行われたが失敗。
明治37年(1904)3月27日第2回封鎖作戦に従事。閉鎖船福井丸に魚雷を受け撤退時に、自爆のための爆薬に点火するため船倉に行った部下の杉野孫七上等兵曹が戻ってないことに気づき、一人沈みゆく福井丸に戻り船内を3度ほど探したが見つからず、やむを得ず救命ボートに乗り移ろうとした時にロシア軍の砲弾を受けせ戦死した。36歳だった。中佐に昇進。杉野上等兵曹も兵曹長に昇進。
5日後に福井丸の船首付近に浮かんでいるのをロシア軍に発見され埋葬された。
靖国神社の遊就館には広瀬武夫が直撃を受けた時の肉片が、側にいた兵士の帽子をかすめた痕跡が残った帽子が奉納されている。
【広瀬武夫とは】
慶応4年(1868)7月16日武夫は岡藩士広瀬友之允の次男として生まれた。幼くして母を亡くし祖母に育てられる。西南戦争での竹田街の全焼で自宅が焼失。飛騨高山に転居した。高山の換章(かんしょう)小学校を卒業し、後年その教師を務めた。
明治18年(1885)に退職。海軍兵学校に入校。柔道は講道館で学んだ。兵学校時代に運動会のマラソンで骨膜炎を患いながら完走したというエピソードがある。一時は左足切断といわれるほど悪かったが安静にすることで完治したがその後も痛みはあったらしい。
明治22年(1889)卒業。入学時の席次は19番、卒業時は80人中64番(49番説もあり)であまり成績は良くなかったようだ。
明治23年(1890)卒業後この年の2月まで軍艦「比叡」に乗船。二度の遠洋航海を経験。少尉に任官。半年だけ測量艦「海門」で測量、警備従事。その間で静岡の清水港に入港した折に清水次郎長と知り合う。
明治27年(1894)日清戦争に従軍。
明治28年(1895)大尉に昇進。連合艦隊威海衛攻撃で水雷艇での夜襲攻撃に参加。
明治30年(1897)ロシア語を学びロシア留学。その後ロシア駐在武官。
在任中に機雷施設の専門家であったアナトリー・コワリスキー大佐の娘、アリアズナ・アナトーリエヴァナ・コワリスカヤと知り合い、文通などの交友もあり、武夫の死を知り喪に服したといわれている。
明治33年(1900)少佐昇進。
明治35年(1902)帰国。
明治37年(1904)2月10日ロシアに宣戦布告し日露戦争始まる。2月23日第1回旅順港閉鎖作戦に従事。天津丸ほか5隻で行われたが失敗。
明治37年(1904)3月27日第2回封鎖作戦に従事。閉鎖船福井丸に魚雷を受け撤退時に、自爆のための爆薬に点火するため船倉に行った部下の杉野孫七上等兵曹が戻ってないことに気づき、一人沈みゆく福井丸に戻り船内を3度ほど探したが見つからず、やむを得ず救命ボートに乗り移ろうとした時にロシア軍の砲弾を受けせ戦死した。36歳だった。中佐に昇進。杉野上等兵曹も兵曹長に昇進。
5日後に福井丸の船首付近に浮かんでいるのをロシア軍に発見され埋葬された。