<扇森(狐頭)稲荷神社>           

<創始>
家康の姪が御室(夫人)であった三代藩主の中川久盛(一説に十二代久昭説があるが年代が近く創始としては新しすぎる)が、慶長19年(1614)隠居中の家康のところへ挨拶に伺った折に、枕辺に御神霊が立たれ、道中で尋常でない事を告げられ、敵意を持つ一派から難を逃れた。久盛は平素信仰している京都の伏見稲荷神社の御神徳のお蔭だとして、家康から下賜されたお金を元に小さいが伏見稲荷神社を模した社殿を作ったのが社殿の創始。社殿名を扇の森稲荷神社とした。
<ご神体>
ご神体は保食神(うけもちのかみ)<この神は女神だったようで日本書紀に登場している。世の中の人が生きていくための食物を生み出した神とされている。この神に関心がある人は日本書紀を読んでください。>のほか四神。
<建築歴>
元和2年(1616)2月。三代藩主久盛公の命で創祠。創祠には知行4千石の第一家老中川玄蕃長房、副奉行は家老中川藤兵衛重治で知行2千740石の二人の奉行が当たった。その規模は小さいながらも京都伏見稲荷大社を模した立派なものであったという。
元禄3年(1690)3月。四代藩主久恒公は父久清の遺言で銀30貫余りを奉納。
享和3年(1803)4月。十代藩主久貴公が創建以来180年余り経って、老朽荒廃した社殿を知行3千石の家老中川求馬久照、知行1千150石の古田頼母広永に命じて改築。
万延元年(1860)10月。火災により社殿の大半を焼失。十三代藩主久昭公は家老中川迶長裕継いで吉田藤四郎広孝知行2千740石に建社工事を命じ、翌年の2月に完成。久昭公はこの時、「扇森神社」の額を奉納した。以来久昭公は神社の管理に藩費を納めた。
明治16年(1883)4月1日の火事により社殿はほとんど焼失した。しかし近隣の崇拝者により神殿が作られた。
明治30年(1897)に段数200段以上ある石段が築かれた
昭和16年に福岡県直方市に分霊奉斉し、「直方のお稲荷さん」「直方おおぎもりさん」と呼ばれている神社がある。
昭和34年(1959)1月には改築がされ現在の華麗な社殿や社務所などが完成した。鳥居の数が今は少なくなったが多いときは橋を渡ったすぐの参道から石段、社殿に至るまで鳥居のトンネルが出来ていた。
<由縁>
狐頭神社ともいわれるのは、この地がむかし狐頭原と呼ばれていた。その頃ある岡藩士が、白狐の頭を埋めた所と伝えられているところからとか、他説に、枕辺に立たれた御神霊が「稲荷狐頭源太夫」と名乗ったとうところからなど諸説ある。
毎年旧暦の2月初午には大祭が模様され、近郷、近在から参拝者が訪れる
<伝承>
境内にこんな掲示板が立っている。玉来村に貧しい老婆がいた。その名を「ときわ」といった。ある日夕方仕事を終え玉来川あたりまで帰ってくると橋(現在の常盤橋)のたもとに一人の美しい女が立っていた。話を聞くと自分の家でお産があるので手伝ってほしいと頼まれた。引き受けて行ってみるとなんと狐が住む穴で女はそこに住む雌狐だった。気味が悪かったが手伝って生ませると、翌日そのお礼にと見事な魚が届けられた。しかしその魚は殿様に献上するもので盗まれたものだった。老婆はその嫌疑で死罪を申し渡された。それを知った狐は老婆に化け死罪になった。その霊を祀って建てられたのが「コウトウサマ」でその穴には今でも白狐の頭がある。(社殿の左下側道に小さな洞が祀られているが小さい頃はそこが白狐のいた穴だと聞いていた。)


※参考資料文献  「玉来今昔」 小倉文雄著