<中川神社>                      

排田原の常盤山にあり、岡藩初代藩主中川清秀、2代秀政、3代久清を合祀してある。
創始当時は城内にあったが明治の廃藩置県後の明治5(1872)4月8日に神号を許可された。
明治6年(1873)に岡城を解体する際に、城にあった清秀の廟所だった莊嶽社
(しょうがくしゃ)を常盤山に移祀し中川神社と称するようにした。
西南の役には、激戦地となり、社には弾の跡が見られた。
常磐山から移される以前は、社前の手水鉢には滝に昇り鯉の神鑿(しんさく)<神への彫り物>があった。下絵は田能村竹田が描き名工渡辺方発が彫ったとされている。
明治15年(1882)に郷社に列せられていたほどの神社であった。
現在は道路の拡張や周囲に建物が建ち昭和36年頃の面影は無くなった。
社宝として大太鼓(長さ3m余、直径1m)があり、旧藩時代に城中で時報に用いた。また銅鐘は竹田市歴史資料館に寄託されている。特に銅鐘は国の重要指定文化財で、鐘の中央に西暦1612年の年号、ホスピタル・サンチアゴの銘があり、キリシタン資料として貴重なもの。西南の役の際には激戦場となり柱や周辺木々に鉄砲玉の跡が社殿に見られた。


 

<山下公園>                      

元禄11年(1698)7月に第5代藩主中川久通が別に諸業する場所としてここに建てたのが「山下の茶屋」である。 明治維新後に玉来ほか13町村組合共有公園となる。当時は杉、松などが鬱蒼とした公園で園内には広瀬中佐の銅像や維新時における勤皇家や功労者の碑などもあったらしい。広瀬中佐銅像は戦時中の金属供出で無くなった。

            資料 「玉来の今昔」 小倉文雄著