(楠公神社) 
楠木正成は、南北朝時代に南の後醍醐天皇について功績を上げていたが、北朝をたてた足利尊氏と湊川で戦い、自刃して果てる。尊氏は武将としての正成を認め

擁護したがその後の代になって逆賊として扱われる。湊川に塚しかなかった正成の墓地に墓を建てたのは水戸黄門光圀だった。皇居前に楠木正成像が建ったのは明治時代で南朝系とされる明治天皇の頃に、天皇を守った武人として建てられたとのこと。前置きが長いが岡藩3代藩主中川久清は勤皇の大志があり、そのために楠木正成を崇敬し城中に奉祀して自刃した5月25日を祭日としていた。余談だが岡藩は明治維新では倒幕派だった。廃藩後明治5年(1872)4月8日に城中から拝田原の常盤公園に奉祀社を移した。明治8年(1875)9月25日玉来町の勤王家が請願し吉野山に遷宮した。
吉野山はつつじの木が植えられ季節には山一面が花に彩られる。