<玉来駅>                       

大正14年(1925)11月30日に大分から開通。豊後竹田駅開通の1年後である。当時は犬飼線と言っていた。豊後竹田〜玉来間3.1Km。工事費42万5千円。1Km平均13万7千96円。
大正13年(1924)4月に合資会社鉄道工業が請負ったが難工事の為、3ヶ月遅れて完工した。開通初日は乗客1821人、降客2561人だったとある。
売上金は262円。(当時 すうどん1杯15銭、いなりすし2個10銭)
開通を祝っての祝賀行事を記したものを紹介すると、玉来の町は2mごとに紅白の布が巻かれたポールが立ち、万国旗や祝意ビラが飾られた。家々の軒先には桜や菊の造花が付けられ、花のトンネルが出来て夜には色の付いた電球が美しかった。駅周り四方の高台からひっきりなしに花火が打ち上げられ、駅に通じる吉田道には「祝開通」の大アーチが立てらた。近隣の竹田、朝地、三重などからも大勢の人が来て喜び合い踊った。南部地方の8ヶ町村(玉来、松本、菅生、柏原、荻、宮砥、嫗岳、入田)の小学校生徒3千人余りも旗行列を行った。夜は花火大会も催され、約2万人の人で賑わった
初代の駅長は滝尾駅から転任された穴瀬勘次という方で、赴任当初は駅周辺は山で囲まれて付近は新築の運送店の建物のと3、4軒の家があるだけのさびしい駅であった。
ただ町にある扇森神社の参拝乗降駅としての利用は高く旧暦の初午には多くの乗降客があった。
昭和26年(1951)の営業実績をみると旅客収入497万円、貨物収入は1250万円とある。
昭和28年(1953)3月17日に駅前広場に寄付などで大鳥居が建立された。その後玉来駅は、祖母山系から切り出される木材の積み込や木炭、米、竹材などの貨物駅として栄えた。
昭和30年(1945)3月31日開業30周年の年、玉来町が合併して竹田市となった。それを継起に待合室拡張や玄関、屋根などが改装されたが町の寄付金で行われた。活気も最高潮で積み込みホームには材木や製材が山と積まれ、手回し起重機が活躍フル活動していた時代だった。
昭和37年(1962)1月に祖母山にあった営林署の作業所が閉鎖された為、それまでの材木を中心とする貨物量が急激に落ち込み、旅客量も減った。
昭和46年(1971)9月30日合理化の名のもと無人駅になった。
最後の職員は5名であった。

 
昭和40年頃     現在の玉来駅