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四原の一揆

この出来事は1811年文化81118日(新暦で翌年1月頃)のことです。

現在なら市役所、岡藩に待遇改善をする為行動を起こしました。四原とは荻の4つの村[柏原・葎原(むくらばる)・恵良原・菅生原]のことです。

今の役所とはまるで異なり比較することは出来ませんが当時の岡藩の治める範囲は今の大野市の西側の半数、旧直入郡全部、大分郡の

一部と広かったのです。この一揆に参加する農民は荻の農民たちだけではなかった、本当はまだ他に参加予定の農民がいました

岡藩に対して要求が成功するため岡領内の農民同士は地下活動を頻繁に行い一揆の計画を密かに練っていました。そしてついに荻の農民たちが

百姓の要求を旗揚げして岡藩に命がけで立ち上がりました。他の村の農民はたかみの見物といったところで参加しませんでした。シリーズ
5回で述べ

る予定ですが荻の農民は参加しなかった他の農民に対して「腰抜けども」とののしり大野の農民たちを怒らせました。そして汚名返上というか

犬飼町で彼らは竹田の百姓に負けまいと一揆を実行する宣言した。この時参加した農民が井田筋といって三本松から

犬飼町までの村農民
6,000人でした。これら一揆について資料探しをした私ですが一揆の資料は残っていません。

そこで古いお寺など一揆のことをしっているかも知れないとの思いで訪ねたところだめでした。中川公から秘密のお達しがあったのか、

本当に知らなかったのか、「知らない」のご返事でした。市の図書館で肥後藩の人が書いた「党民流説」という本に

四原の一揆という本がありましたので原文を現代風にアレンジする事に致しました。

     3回目は「農民要求」をお送りします。

四原の現在も大農園地帯

農民の集結した吉田峠が写真後方

農民の集結した鑰畑が写真後方

山手集結

        第2回

庄屋と大庄屋

竹田市柏原地区

竹田市葎原地区

第3回へ

第3回目は要求をお送りします。

竹田市恵良原地区

竹田市菅生地区

取材・編集コメント

庄屋―地方三役の一つ、村代表者
年貢業務、法管理又それ以外に
年貢減免など村民表業務もした。
庄屋が村代表者だが大庄屋は
庄屋を10ヶ位統括したもの

2回「四原の農民山手川原に集結」

四原の村々では「15歳から60歳までの男子ならば、一人残らず、全員参加せよ」

と一揆の責任者は呼びかけました。ほら貝、鐘、太鼓など鳴らしながら、手に手やり大がま、鉄砲、山刀など持って、玉来町の吉田峠と鑰畑(かぎはた)の2ヶ所に百姓たちが集まりました。これを知った町人たちは戸を閉め中にこもり、女や子供は寺などに逃げました。村の長である庄屋も農民の豹変ぶりを見てなだめるどころか自分を忘れ逃げに逃げたのです又庄屋は藩の役人に我々ではどうすることも出来ないとバトンタッチしお手上げ状態、藩側は直ちに玉来の役人に農民の言い分を聞く様命じました。役人は農民の圧倒的勢いに怖くなって役人と言う立場も何処かに消え御身大切と逃げ帰っしまいました。

次に藩側は横目大津金左衛門を使って酒と魚を農民に与え機嫌どりしたようですが失配しました。次の手はお寺の僧なら言うことは聞くだろうと人々の信頼の厚かった光西寺の僧に農民をなだめる様命じましたがこれもだめ。さらに万徳寺の僧の起用もしましたが空振り。最後の切り札として、藩から長尾助五郎を始め代官の朝倉平三、大庄屋など大勢で玉来町への百姓の乱入を止める必死の手立てをしましたが農民の勢いの方が非常に優っていました。玉来の町についに入った百姓たちは占領した気持ちで益々気勢を上げ町の商店で戸を閉め隠れている商人に対し「お前達は、俺達の苦しみが全然判っていない、不届き者」と家に浸入し家屋を次々に壊し町を荒らしまわりました。玉来の町は戦国時代の無法地帯化したのです。農民は玉来の町を通過し次の目的地、山手川原に向うのでした。

私が本日、取材のため、荻をはじめこの一揆に関係するところを回って判ったことに農民は庄屋を狙い撃ちしている。岩本のある高齢の話によると荻の庄屋の家の中の鴨居のところに大きなヨキの傷ありその傷は農民一揆の時乱入した時のものという、又吉田峠はどこなのか場所を調べる時吉田のある男性が話してくれたことですが太田に刀傷がまだ残っているところがあるという、ここも聞くところによると庄屋だったという。又火事場泥棒と言う言葉がありますがこの一揆の混乱にまみれ盗みも町であった様だ。こんな雰囲気であっても死人の出た話は出てこない、この事は刀傷があったといえこの一揆は大いに騒いだわりに人の命だけはとるなと当時の責任者は言っていたのではと思われる。一定の統制は取れていたように考えて良い。私がこの一揆で一番気になることは庄屋と農民の関係である。庄屋は農民のすぐ上の役人で職場で言えば直属上司、農民の困った悩みを聞くのも庄屋です。この関係が何かの原因で壊れたに違いないのです。この件に関しては時間があれば取材する価値があるように思われます。

         お寺
お寺の僧は士、農、工、商どれにも
属せず特別な存在、その為か
社会的に公平な立場であり農民にも
厚い信頼があった。岡藩が
僧の力を活用したのもこんな事から
かも知れない。

玉来を通過した百姓たちはその後も
合流、合流を重ね人数は増えますます血気盛んになるばかりでした。前もって申し合わせた通り山手では4,000人が揃う事になる予定でした。この一揆は壮大な緻密な計画がひそかに立てられていました。現在のやすらぎ公園ですがこの一揆勢には狭いぐらい人の集まりがありました。だんだん山手に集まる農民、この頃の山手は鋳物をつくる人が多く住んでいたところで鍋や釜はたくさんあり、釜をたたく者などいてとても騒がしい音が鳴り響いていました。付近の住民から米を集め大釜で飯を炊く者大人数のこの光景は時の声としてすさましいものでした。若い15歳の少年も60歳の大人も一つの目的で集団化し怖さなど全く無くただ一つの願のもとにみんなが立ち上がつたのです。