<文化大一揆>                         もとへ戻る

  「藩政策の問題」
  岡藩は7万石だが大野、直入を含めての当初から石高で、開墾などが進めば増えるが岡藩は増えていない。
  ということは藩の財政も増えていないことになる。岡藩が年貢石高が最高な年は宝永5年(1708)で総年貢
  高が7万7、8千石あった。それが享保17年の大飢饉で4万石弱にまで落ち込んだ。収穫は短期間で元に戻
  るが、一旦大きな赤字の財政になるとそれ以上取り戻すには長い期間が必要になる。
  そこで文化4年(1807)に勝手方御用係の横山甚助が、赤字立て直しということで、御用金という名目で商人
  から借金や寄付をさせてやりくりをした。
  文化の新法を制定。御物会所、生産会所を作り、農民が生産した農産物を藩が買い取り、藩が売る。御物会
  所は穀物を扱い生産会所は材木、酒、、薪、炭、煙草、農民の作る草鞋、、縄、脚半(あしなか)などを扱った。
  数などを農民に割り当て夜なべ仕事でもして割り当てを消火させ、それが出来なければ金を納めるように命じ
  た。数も尋常ではなく毎晩作らなければ追いつかないくらいで、昼間は野良仕事で夜は夜なべが毎晩続いて
  は農民も大変だった。 
  さらに塩問屋、諸品中継問屋というのを作り、農民が買うものを扱い塩などの必需品は行商人ではなく藩の御
  用商人から買えというわけである。
  このように藩の一方的な押し付け改革に不満を持った百姓を中心とした一揆が文化8年に起きた。日ごと拡大
  の流れは「玉来の歴史」に記載したが、人集めに脅迫めいた言葉で集めたようで「16歳以上の男は全て竹槍
  鎌、山刀などを持って出てこい。出てこなければ皆で押し掛け家を打ち壊す」といった具合。
  玉来から山手河原に押し寄せた一揆団に対し長尾助五郎という藩士が鉄砲隊を連れ河原に出向き一揆団の
  言い分を聞いた。
  言い分は脇蘭室の「党民流説」や「外聞之書付」という資料によると
  (御物会所、生産会所、塩問屋、諸品中継会所の差止め)、
  (夜なべ運上の差止め)
我々が毎晩している夜なべ仕事の苦労を実際に知ってをもらうために、家老1人、
   横山甚助、志賀小太郎、朝倉平之進(この両名は横山甚助の手先として動いた武士)、明石屋惣介(犬飼の
   商人でこの新法で財をなしたといわれる)を下げ渡してほしい。
  (開畑増上税納の御免)本来の畑の周りを少し切り拓いただけで増税をするのはやめてほしい。
  (中角新井出工事の差し止め)畑や田んぼに水を引きやすくするように井出を築けというのはわかるが完成
   するまでには奉仕労働を強いられ農作業ができないのでやめてほしい。
  (御蔵納米の改方の復旧)年貢を俵で納めていたが、1俵に4斗入れて所定の場所に馬車で運んで下ろし
   またそこから馬車積む、そうしているうちに少しずつこぼれ目減りが生じる。藩の蔵に入れるときに俵を解い
   て計りなおして詰める。従って目減りの分を補うため2升ほど足していた。これが非常に厳しかった。これを
   以前のように緩めてほしい
  (助合米の毎年徴収の緩和)飢饉などの対応としての助合穀(裸麦、小麦、米)などを毎年の徴収をやめて
   ほしい。
  (仕出し夜なべの品上げ差止め)生産会所への品上げはやめてほしい。
  (草茅野連上の差止め)農家の屋根はほとんど茅葺きである。そのため茅場を持って保管してあるがそれ
   に対して税がかかているのをやめてほしい。
  (荒地年貢の御免)
本来畑にしなければならない土地を荒れ地にしている場合、そこに税をかけるのは
   やめてほしい。
  (上納米、大豆の粒選びの御免)岡藩の年貢米、大豆は大阪では岡米、岡大豆という銘柄で出ていたが、
   大阪で岡大豆の人気が上がり、岡大豆の値段が決まらないと全国の相場が決まらないというほどになった。
   そこで岡藩は粒の良いものを送り一層値段を上げようと粒選びさせるようになり、米も同様に行った。
   このため農民としては普通に納めていた大豆や米が厳選されるようになった。これをやめてほしい
  
(酒屋呑む小売禁止の廃止)町内の酒屋で小売り呑み禁止はやめてほしい。
  (大庄屋手付頭取の廃止)収穫高1石に対し米1升を余分に取っているのをやめてほしい。
  (家中渡り奉公人の軽減)武士の家の走り使い奉公人として村に割り当てられた人数を減してほしい。
  (米穀他所売り許可)年貢の米や大豆を納めた残り分は、全部御会所で買い上げになっているが、百姓の
   自由にさせてほしい。
  (牛馬他所売り禁止の廃止)牛馬は自由に売買させてほしい
  (田畑打ち出しの免除新規開墾地に対しての即増税は、開墾地は即収穫ができるものではなくやめてほし
   い)。
  (鉄砲札運上の免除)狩をするため村人の中には鉄砲を持った人がいて当然税(税金小物成)は課せられ
   ていた。ただこの願いはその税金の減額願いなのか、田畑をあらす動物を脅すための空鉄砲も何人か持っ
   ていたがそれには課税しないでほしいという願いなのかわからない。
  (問屋二重口銭の禁止)問屋が不正二重口銭を取るのはやめてほしい」。
 以上のようにかなり多くの要望がなされているようで、相当な不満、不平が農民に鬱積していた様子が分かる。
 ただ確実な藩の資料としてではなく、百姓などから聞き集めたものようである。
 「外聞之書付」というのは、岡藩に隣接する熊本藩の久住代官が一揆の起きた原因などを密偵に探らせたもの
 である。当時熊本藩の豊後領は鶴崎、野津原、久住にあった。
 この頃は各藩とも財政が厳しく、藩がそれぞれの特定の産物や生産品の専売制度を採用し、他の藩との取引を
 行うようになり、江戸や大坂のような大市場ができ大量の商品が取引されるようになった背景がある。専売は
 藩による生産物独占、流通独占、特定商人による委託販売などで自由な生産、販売が規制された。

  ※竹田の一揆の状況の興味がある方は「四原の一揆 山手集結」というページにも載っています。
    一揆の最初のページのみ表示していますが、さらにリンクできます。
 「他藩への波及」
 この一揆がきっかけで各地に一揆が連鎖的起きるが一連の一揆をみると
 文化 8年(1811)12月 臼杵藩  大野郡三重市、野津市(現豊後大野市の三重、野津)、大分郡戸次
                        (現大分市の戸次)で起きた。
 文化 9年(1812) 1月 佐伯藩  海部郡因美郷(現南海部郡本匠村)で起きた。
 文化 9年(1812) 1月 延岡藩  大分郡(現大分市の一部)で起きた。
 文化 9年(1812) 1月 府内藩  大分郡(現大分市)で起きた。
 文化 9年(1812) 2月 中津藩  豊前の中津(現中津市)で起きた。
 文化 9年(1812) 3月 中津藩  宇佐四日市にあった公領(幕府領)で起きた。 (四日市の変)
 文化 9年(1812) 3月 高田藩  安心院の島原藩領で起きた。
 文政 元年(1818)     杵築藩  杵築領国東郡で起きた。