TOPページへ

<玉来町とその周辺の変革>
西安 元年(1299)頃

  人家が集まり始める

嘉元 元年(1303)

  数十軒の町並みになる。昔は猫原(ねこばる)と呼ばれていて「石割迫」(現在の場所は不明)の奥は、
  特に猫が多く魔所と言われ、 旅人はもちろん町民も困っていた。この対策としてし神仏を祭る場所を
  造ってはどうかと、町民が相談している折に一人の僧が立ち寄り、「神社や仏閣を建て、悪魔を退散
  させなければ町の繁栄は無い」と伝えた。僧の指示に従い四方に埋め神社、仏閣を建て玉を納めた。
  一番玉は、町の北東に丸山という竹山があった。そこに鬼門除けとして薬師如来を安置し鶴林山と
  名付けた。現在は下鶴と呼ばれている。
  二番玉は、南西には地蔵尊像を造り納めた。
  三番玉は、北西に天神社を建て納めた。
  四番玉は、南東に薬師如来を祭った寺を建て来福寺とした。その後ここは山崩れに遭い、 お堂が
  壊れたので地蔵尊像の場所に移しお堂を建てた。

徳治 元年(1306)

  当時の岡城主、志賀氏房(3代目城主)の命で城原の轟町から24軒を移した。以後本町、新町、横町
  の三筋の町並みが出来て竹田城下への西側の入口として繁栄した。町政は目代<(もくだい)日本の
  平安中期から鎌倉期に、遙任国司(国司に任命された者が現地に赴任せず、京にいて収入だけは
  得ていた)が現地に私的な代官として家人などを派遣した代理人のこと。眼代(がんだい)ともいう>が
  1人、乙名<村落の代表者7人で治め,造酒屋17軒、油屋9軒があったという。この頃から地名を
  「玉来」と呼ばれるようになった。
  岡城周辺には、江良原、葎原(竹田市荻町馬場字葎原)、柏原、菅生原の四原を控えた宿場町として、
  また日向高千穂へと通じる要所で非常に栄えた。

天正14年(1586)

  11月秀吉の九州征伐で薩摩島津義弘の軍勢3万5千が押し寄せ、岡城攻め(城主志賀親義)の際に
  道筋にあった玉来の町は焼かれ全焼した。
    ※島津軍は3万余兵の勢力で入田にあった津賀牟礼城を落とし、神原にあった小松尾城、朝地に
      あった一万田城も落とした。 しかし岡城は難攻不落といわれた城だけに落ちずに抵抗した。

文禄 3年(1594)

  城主中川秀成が竹田の町造りの為、玉来町から商家53軒を竹田本町に移し、玉来の町は150軒余
  となった。その為かその後、町の勢いは衰えてきた。藩は町を活性化させる為、遊郭を置き(3軒ほど
  あった模様)町の発展を計り思惑通り繁盛した。

元和 5年(1619)

  3月17日 地震で大きな被害を受けた。

慶安 4年(1651)

  8月21日 町は全焼し、基幹産業の酒造りも休止した。

明暦 2年(1657)

  江戸の火事で有名な「振袖火事」の1日後になる1月19日に28軒を全焼して、藩からは食料米などの
  救援を受けた。

万治 3年(1660)

  玉来町でキリシタン攻めとして始めて踏絵が実施された。
  5名ほどが摘発された模様。

寛文 4年(1664)

  大火災が発生。商家が全滅した。(与助の家から出火したので与助焼といわれている)。それからの
  復興は難しく、3筋の横町が少し残っただけでその後は1筋の町になった。<s

寛文 7年(1667)

  阿蔵橋を建設。文献の内容から現在の常盤橋のようで当時としては大きな橋だった模様で、橋台が
  石垣櫓で作られたとある。当時は橋脚は木橋が常識な時代だったことを考えれば大きな頑丈な橋と
  思われたはず。それまでは玉来と竹田間は川下に小さな橋が架かっていた。松本の人もそれを利用
  して竹田に行っていたらしい。
  近年はこの橋で竹灯籠祭が催されているようでポスターに江戸期の石垣とあった。橋は明治になって
  改築されたようだ。
   ※阿蔵の地名は「阿」は「クマ」とも読み、「曲がって入り込んだ所」の意味から川がぐるりと曲がって
     いるので「阿の蔵」とついた。また別説として麻畑が多い土地から麻生と言っていたのが「阿蔵」と
     なったという説もある。

寛文12年(1672)

  頻繁に続く火災の防止策として、井手(水路)を君ヶ園(松本)から引くことを決め(下矢倉から引いた)
  町中の道路幅5間の中に1間の水路が4月に完成。(現在も片側に移動され水量豊かに流れている)
  これに併行して防災林として竹薮を設けることになり、町の両方の畑に飛田川、穴井迫、柏原、平、
  君ヶ園、次倉、恵良、玉来組の人夫が協力して7月に植え終わった。
   ※岡藩の食料基地という事で、灌漑用水路が玉来周辺に慶安7年(1654)から寛文14年(1674)
    にかけて築かれている。拝田原井手。中尾井手。穴井迫井手など。(現在もある)

天和 3年(1683)

  火災で新町10軒ほど消失。

元禄16年(1703)

  11月7日新町がほぼ全焼失。防薮で1軒残る。(喜之助焼)

享保17年(1732)

  飢饉、虫害により食料不足が続く。

延享 元年(1744)

  藩財政が厳しくなり、享保元年より岡藩は改革<中村三郎左衛門の改革を10年間実施。

延享 3年(1746)

  2月22日真正寺から出火。薮際の23軒が残った。

安永 7年(1778)

  二度目の改革<井上主水左衛門の改革>を実施、農民の困窮救済を目的とした改革で「助け合い
  米」「御預け牛」「産着料」など下付(補助金)政策。商人には領内の穀物、たばこ等の独占的集荷権、
  出荷権を与え、代償に年銀500貫を納付させた。一応は成功したかに見えたが藩財政は好転しなか
  った。

文化 4年(1807)

  三度目の改革<横山甚助の改革(御勝手方御用係)>、文化の新法で改革。内容は御物会所という
  ものを設け藩内の特産物を全て藩で買い上げ、藩が売る。塩問屋を作って藩が売る。塗り物、蝋燭
  (ろうそく)などは御産会所を設け藩が買い上げ、藩が売る。など70項目に渡った。

文化 8年(1811)

  江戸末期になると各藩は財政が厳しくなり、それを乗り切るために改革案を出して(上記改革)遂行し
  たが農民を苦しめる悪法になり、農民が団結して新法の廃止を要求し藩や幕府領の役所、豪商、庄屋
  などを襲うようなど死を覚悟した暴動が起きた。11月18日豊後の「文化大 一揆]と呼ばれる一揆の
  口火が、岡藩から始まった。
  四原地区葎原<むぐらばる>(現竹田市荻町葎原)、柏原(現竹田市荻町柏原)、恵良原(現竹田市
  恵良原)、菅生原の農民約2000人(4000人ともいわれている)が玉来まで押し寄 せ、さらに山手河
  原(以前の竹田商業があった稲葉川の河原あたり)に集結。御物会所や御産会所、塩問屋の廃止を
  要求して乱暴を働き、略奪などを起こした。
  この時は家老の中村平右衛門が新法を取り下げ終結した。
  12月頃になると藩内に不穏な噂が流れ、城下になだれ込むのではないかと町民は恐れた。
  4日井田郷(現犬飼町)に数千人(6千人ともいわれている)の農民が集結暴動を起こした。
  この時も古い法を生かし新法は廃止する。拝借権は下付(援助)するということで終結。
  6日正午頃に三宅、、阿鹿野(現竹田市刈小野阿鹿野・・・久住白丹の近く)、梨原(現豊後大野市朝地
  町梨原)、今市(現豊後大野市三重町今市)、朽網<くたみ>(現竹田市久住町近く)一帯に動きが見
  られて藩内の壮年の武士に見晴らせた。夜になり三宅、植木木原(現城原の近く)勢、橋宇津(現竹田
  市植木橋宇津)、 雉平(現竹田市米納雉ヶ平<よないきじがだいら>・・・植木の近く)が決起、三宅、
  植木勢は法師山(現竹田市枝)に登り、橋宇津、雉平組は松原(現在地?)に集結し、篝火を焚いて
  気勢を上げた。木原勢は平田(現竹田市平田)まで押し寄せ高千穂神社の神幸所に屯した。北尾鶴
  (現竹田市小川北尾鶴・・・久住の近く)や菅生勢は君ヶ園の庄屋総右衛門宅を襲い玉来へ迫った。
  緒方勢は門田(現竹田市入田門田)に押し寄せ、君ヶ園を襲った組と合流。翌7日早朝に緒方勢、
  阿志野(現豊後大野市朝地阿志野)勢、菅生勢が総勢1万5千人程にもなり玉来を襲撃し、町役の
  庄屋である大津金左衞門、組頭の高崎助衛門、横目(※)の阿部良衛門、尾崎新八宅の家財を壊し、
  資材を略奪し撒き散らした。篠田(現玉来吉田)の庄屋も被害にあっている。
  この騒動が発端で以後周辺の藩や北部 九州で一揆が次々に起きることになる。
  岡藩は、6月12日藩が一揆に対し要求をある程度のんで犠牲者がなかったことで「岡なだめ」といわ
  れているが、処罰者は梟首(きょうしゅ・・・人の首を木につるしてさらすこと)が5人、苔刑(鞭打ち)が
  37人と記されている。  
  ※横目・・・庄屋の下で村のもめごとなどを納めた警察のようなもの。村では「村横目」と呼ばれた。
    言葉の「横目」の意味は「監視」であり幕府の「横目付」からきているが、幕府の「横目付」は藩の監
    視、藩の「横目付」は下級武士の監視、村の「横目付」は郡奉行の支配下にあり村人を監視した。

弘化 3年(1846)

  台風による大洪水が3回ほど発生。死者40名近い被害。

明治10年(1877)

  5月22日西南戦争に於ける官軍と西郷軍の戦いで、荻や恵良原駐屯していた官軍が竹田に居た
  西郷軍に攻撃をかける為、竹田街道を通り進軍して来た。宿泊地を玉来とし本陣を構えた。22日は
  「阿蔵」「扇森狐頭神社」「中川神社」も戦場になった。この戦いは、壮絶を極め「鴻巣台」「鬼ヶ城切り通
  し」「茶屋の辻」と激戦の末、5月29日に官軍が竹田を占領し  西郷軍に味方した岡藩竹田は町を
  焼き払われ全焼した。

明治13年(1880)

  玉来郵便局設置

明治22年(1889)

  玉来役場設置

大正15年(1925)

  豊肥本線大分〜玉来間開通

昭和11年(1936)

  12月16日 岡城が史跡指定を受ける
    ★昭和12年頃の物の価格  はがき3銭 封書7銭 米1升43銭
      労働日当1日 男性1円20銭  女性80銭     大工日当1日2円    左官日当2円20銭
    ★昭和26年頃の物の価格  はがき5円 封書10円              
        ※戦後のインフレで「はがき」が160倍、封書が140倍を超える価格になっている。

昭和29年(1954)

  3月31日 竹田市誕生。玉来も竹田市玉来となる
  竹田町、玉来町、豊岡村、松本村、宮砥村、入田村、B岳村、菅生村、城原村、宮城村の2町8ヶ村が
  合併。

★昭和36年頃の玉来の街並みを皆さんの記憶をたどっていただいて作って見ました。
  また不明な所もあります。お気づきがありましたらご連絡下さい。             玉来街地図
 

<資料> 玉来の今昔(小倉文雄)  
       竹田史誌